愛は学ぶもの

このクラスでは、私は教えているのではない。私も一緒に学んでいるのである。私たちはみんなで広い絨毯の上に座って、2時間のあいだ気楽におしゃべりをする。話は尽きなくていつも夜になってしまうのだが、すくなくとも正規の2時間は「愛は学ぶもの」というテーマについて考えを述べあうことにしている。

愛は学ぶものだということは、何年も前から心理学者や社会学者、人類学者たちが私たちに教えてきてくれたことだ。愛はひとりでに生まれてくるものではない。ところが私たちは、愛は降ってわくように勝手に生まれるものだと思いこんでいる。だから、それがさまざまな人間関係にからんでくるといろいろとやっかいな問題をひきおこすことになる。

ところで、私たちに愛することを教えてくれるのは誰だろうか。まず「私たちが住んでいる社会」があげられる。しかし、これは実にさまざまだ。私たちは両親からも愛し方を教わって育つ。父親や母親は最初の先生である。だが、必ずしも最上の先生とはいえない。だれもが、両親には非の打ちどころのない人間であってほしいと、期待するかもしれない。

子供というものは、つねに両親が申し分のないひとであってほしいと願いながら大きくなる。やがて、父や母もただの人間であることを知ってひどく失望し、幻滅し、本気で腹を立てる。大人になるということは、父や母という一人の男性と一人の女性に真っ向から向きあい、彼らも自分と同じようにごく普通の人間で、コンプレックスや誤った考えや優しさを持ち、喜びや悲しみや涙ももっているのだと認めるようになることかもしれない。

そして大切なのは、もし私たちが愛を父や母やこの社会から学んだのだとすれば、私たちはそれを忘れることも学びなおすこともできるということだ。だからこそ大きな希望が持てるのである。この素晴らしい望みは誰でも持つことができるが、とにかく私たちはどこかしらで愛することを学ばなければならない。

もっとも、こんなことはみなさんは大抵もうご存じで、これからお話しすることにも目を見はるほど新しいことは何ひとつないかもしれない。ただ、だれかが心を強くして立ちあがり、口に出して言うというだけのことである。だから、みなさんも自由に考えてみてほしい。「私もそう思う」とか「そう思ってはいけないのだろうか」というふうに。

— posted by Self at 11:44 pm  

 

自分を見つめなおす

どうして私が教室で愛を教えようと思いたったのか、そのいきさつを少しお話ししておきたい。世の中はどこも同じで、私が大学へ「愛」を教えに行ってキャンパスを歩いていると、同僚の先生方がくすくす笑いながら近寄ってきて、私をつついてこんなことをいう。

「きみ、愛の手ほどきは土曜日にもしているの?」私は、もちろんそんなことはしていない、と答えている。5年ほど前だったが、私が現在教職についている南カリフォルニア大学の教育学部長に面接をして頂いた。この方は大変お堅い方で、立派なデスクの向こうにでんと座っておられた。

私はそのすこし前に、自分が教育行政には向かないと判断し、カリフォルニアのある大きな学区域の特別教育部長の職を辞めていた。そして、教師なのだから教育の現場に戻りたいと思っている最中だった。私が腰を降ろすと、学部長はこうたずねられた。

「きみはこれからの5年間、なにをしたいとお望みですか」私は即座に、なんのためらいもなくこう答えた。「愛の教室をひらきたいと思っております・・・」すると学部長は一瞬言葉をのんで黙っておられたが、やがて咳きばらいをひとつして、おもむろにこうたずねられたのである。「で、それだけですかな?」

2年後、私は念願のクラスを開講したが、集まった生徒は20人だった。それがいまでは200人になり、欠員を待っているひとは600人にものぼっている。このあいた登録を受けつけたときには20分で定員いっぱいになってしまった。私の「愛の教室」がどんなに歓迎されているか、これでおわかりいただけるかと思う。

教育委員が集まってアメリカの教育の目標をきめるたびに、第一にあげられるのがきまって「真の自分を完成させること」だというのには驚いてしまう。小学校から大学院にいたるまでどこをさがしても、「私はなんなのか」「私はなんのために生きているのか」「私は他人になにをしてあげなければいけないのか」あるいは「愛について」というようなテーマで授業をしているところが、ひとつも見あたらないではない
か。

私か知るかぎり、正式に「愛について」というクラスを開講しているのは、アメリカでは、いやたぶん世界でも、私どもの学校だけである。しかもこの私か、それを担当するおかしな教師ということになっている。

— posted by Self at 11:33 pm