自ら学ぶ者こそが学ぶ

南カリフォルニアに来て1年目は、クラスをひとつだけ開講したのだが、そこで私はハッとするような体験をした。誰しもこんな経験をおもちかと思うI話しているうちに、聞いていてくれる人たちの鼓動が伝わってくるのを感じたのだった。あなたも、「人前で話をする」というだけでなく「聴衆に向かって語りかけて」いけば、あなたと聴衆とのあいだになにかが通いあうのがわかると思う。

大勢が集まって人の話を聞くのではなく、小さなグループになって一緒に腰を降ろし、心ゆくまで話しあうことができれば、そのほうがずっとすばらしい。しかし、それはそれとして、確かにどんな会場にも語りかけに応じてくれる顔もあれば生き生きと反応を示してくれる人もいる。

聞き手と話し手のあいだには通いあうものがある。話していて、支持してくれる人が欲しいときはそういう人たちに視線を向ける。するとその人たちはにっこり笑って、「そのとおりですよ、あなたはいいことをいっていますよ」と答えてくれる。こうして、私は大変力づけられるのである。

実は、私がはじめて開いたクラスにそういう人が一人いたのである。とても綺麗なお嬢さんだった。いつも彼女はうしろから6番目くらいのところに座って、うなずきながら話を聞いてくれた。私がなにかいうと、彼女が「ええ、そうですわね」といってくれるのが聞こえるような気がしたものだ。そして彼女はノートをとる。すると私はこんなことを考える。

「ああ、いま私は彼女と本当に心を通わせあっている・・・私と彼女との間には、とても素晴らしい、いいことが起こっている。彼女はいま学んでいるのだ・・・」

ところが、ある日彼女はぷっつりとこなくなってしまった。一体なにがあったのか想像もつかないままに、私は待ちつづけた。しかし彼女はとうとう姿をみせなかった。思いあまって私は女子学生部長に尋ねてみた。すると、こんな答えが返ってきた。

「ご存じなかったのですか。あの学生は論文もずばぬけて優秀で、頭も非常によく、考えられないくらいの創造力の持ち主でした。それなのに・・・ハリセイド州立公園へ行って絶壁の近くに車をとめると、そこから下の岩場へと身投げしてしまったんです。私は、あれ以来ずっとひとりで考えつづけています。学校で学生たちにいろいろなことを教えこんでいますけれど、私たちは、彼らが知識を詰めこむ機械なんかではなくて、人間なんだということを忘れているのではないでしょうか」

これと同じようなことをカール・ロジャーズ氏も最近、「好機を逸する」と題してつぎのように語っておられる。人が人にものを教えたなんてことを私が信じないのは、君も知ってのとおりだ。私は、教えることの効力には疑問をもっている。私にわかっているのは、学ぶ意志をもった者は学ぶ、ということだけだ。教師たらんとする人間も、所詮は助っ人にすぎず、ものを相手の目の前に置き、それがどんなに素晴らしいかを語り、食べろと勧めるだけのことだ。

私たちにできるのはそこまでで、だれに対しても、どんなものであっても、無理に食べさせるなどということはできはしない。どんな先生にしろ、誰かに何かを教えたなどということはなく、人はみな、自分で学ぶのである。「教育者」という意味の英語はラテン語からきており、「導く」とか「案内する」とかいう意味である。つまり教えるということは、まずその人自身が夢中になってその人自身がよく理解し、それを他の人たちに示して「ほら、これはとてもおいしいわよ。こっちへ来て、私と一緒に食べませんか」ということなのである。

「メイム」にこんな一行もあったではないか。「人生とは宴会です。とてつもなく不味い料理は、人を餓死させてしまう」そういうわけで、いまの教育はこれでいいのだろうかと私は疑いはじめたのだった。しかし、これも最近は以前ほど難しいことではなくなってきている。というのは、ジルバーマン氏のような方たちが、同じような意見を出されるようになったからである。どうやら私の言う事もそれほど奇妙だとは思われなくなってきているらしい。

— posted by Self at 11:27 pm