コストが安い直販投信とは

直販投信は「わずか10本」

最近、密かに話題になっている「独立系直販投信」つて知っていますか?投資信託を運用する会社が証券会社や銀行など販売会社を通さずに「直接販売」するファンドのことです。日本の一般向けの投資信託は現在約3,000本あり、そのうち直販投信といわれるものは10本です。

「わずか10本でなぜ話題になるの?」と思った人は鋭いです。直販投信について、そのあたりの「事情」もお話ししちゃいましよう。

そもそも投資信託は「作り手(運用会社)」と「売り手(販売会社、証券会社や銀行など)」と「運用資産を管理するところ(信託銀行)」の3つの組織が関わっているのです。

また、投資信託の主な手数料には買う時に掛かる「販売手数料(入会金のようなもの)」保有する期間中に掛かる「信託報酬(年会費のようなもの)」があります。このうち販売手数料は販売会社が全て受け取り、信託報酬は関わる3つの組織で分けて受け取ります。

直販投信は販売会社を通さず運用会社自らが個人投資家に販売するため、販売手数料が掛からず信託報酬を低くできるのがメリットというわけです。いつも言うことですが、投資する上でコスト(手数料)を安くするのは収益性を高めることだと覚えておいてください。

どの直販投信も「個人投資家が長期投資できる投資信託」を目指しています。「当たり前じゃないの?」と思うかもしれませんが、残念ながら長期投資できる投資信託ばかりではないのが日本の実情なのです。

特に、その時々のトレントをキーワードとして銘柄選択するテーマ型ファンドは長く持っていいものではないと思います。1999年頃「これからはITの時代」とIT関連企業に絞って投資するファンドが売り出されました。1万円の基準価格でスタートし、ITバブルの頃(2000年頃)は1万5,000円まで上昇しましたが現在は3,000円くらいです。

旬のときに売ってしまうべきファンドですが、そんなことは売り手も言わないし、誰も教えてくれません。多くの人は「長期投資は大事」と考えて下がるまで持ち続けてしまうでしょう。ここまで下がると腕のいいファンドマネジヤーが担当しているとは思えません。

また、運用会社の多くは大手金融機関の系列なので「売りやすい」商品の開発など販売側の意向が強く働くことが少なからずあるようです。直販投信なら「流行」「売りやすさ」を重視したファンドを勧められることはないのもメリットです。

各社の違いを調べて判断

多くの直販投信は自社の運用ポリシーなどを顧客に知ってもらうために勉強会を開催しています。私もいくつか参加しましたが、実際に話を聞いたりディスカッションすると、各社の違いがよく分かります。

直販投信を買うなら各社の特徴や個性を知るプロセスは外せないなと思いました。それぞれ「思い」があってファンドを立ち上げているので、そこに共感できるかが判断ポイントとなります。地方在住など勉強会に参加できない人はサイト上の投資家へのメッセージを読んでみましょう。

好きなときに随時購入できる「スポット購入」毎月定額で買っていく「積立購入」、いずれも1万円からできます。一部1,000~3,000円からできる会社もあります。積立購入は、時間分散の効果がありますが、私は、初めてのファンドはまずスポットで買うことをお勧めします。

「ファンドの積み立ては結婚のようなもの、結婚前に色々な男性とお付き合いしてからの方が失敗は少ない」というのが私の持論です。ですから、そのファンドが他と比べてどこがよいのかを知った上で「積み立て」に踏み切りましょう。

— posted by Self at 06:01 pm  

大切なのは目に見えないものである

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ソローキン(1889-1968年アメリカの社会学者)は「愛-その力と方法」という著書の序文でこんなことを述べている。

即物的な五感や我々の理性は断固として愛の力を信じようとはしない。愛は我々にはまるで幻影のように見える。我々は愛を自己欺嘩、人間の知性を麻痺させるもの唯心的な考え非科学的な妄想などと呼び愛の力を証明しようとする理論にはことごとく反対しようとする。

愛が他の力の形をとって人間の行動や人柄を決定し、生物としての人間のあり方や社会、道徳、精神などの進化の過程に影響を与え歴史の流れを方向づけ社会のしくみや文化を形成するなど確固たる働きをするということを証明しようとする理論には我々は頭からことごとく反対しようとする。

だが事実はその通りなのだとソローキンは科学的な研究で私たちに証明して見せている。もしあなたが数字で表される存在しか信じられないとしたらなんと恥かしいことだろう。そしてあなたがその目で計れるものだけに心を奪われているとしたらなんとお気の毒なことだろう。

というのも私は計ることのできないものに夢中だからだ。私の心を虜にしているのは様々な夢であって今目の前にある物だけではない。目に見えるものも悪いとはいわない。私にも見えるし、そのお気持ちも分かる。

あなたが見える物に物差しを当てて一生を過ごそうとお望みだったらそうなさればいい。それも結構なことだ。ただ私は現実以外のものに心を寄せているというだけのことである。私達に見えないことや触れられないこと、感じられないことなど理解を超えていることが世の中にはたくさんあるのだ。

私たちは人間は現実という箱のなかに閉じこめられているものだと思い込んでいるが決してそうではない。ときにはドアを開けて外をみてみよう。どんなに多くの物がそこにあるかわかるだろう。今日は夢だったものが明日は現実になる。それなのに私たちは夢を見ることを忘れてしまっている。

— posted by Self at 01:36 pm  

私たちは力の入れどころを間違えている

愛を学ぶのはとても楽しいことである。しかし5年前にはじめて「愛の教室」を開講したころ、私は非常に孤独だった。実際、いまでも忘れることができないほどだ。あるとき私は、他の大学で私と同じような研究をしているひとりの先生と議論したことがあった。

私は「愛は生き方をかえるものだ」と主張し、相手の先生は「愛は情である」と考えていた。私が自分の考えを口角あわをとばして語り終わったところ、かの先生は私に向かってこういった。

「君はまったく浮世ばなれしているよ」”浮世ばなれ人間”という奇妙なレッテルをはられたのは、私の知るかぎりではおそらく私ひとりだけのようだが、それもまあ、なかなか粋なものだと思う。それに、このごろは私もそれほど孤立しているというわけでもなくなってきた。というのは、愛情に目を向けて、愛の研究をする人がふえてきているからである。

私の目をひらかせてくれた大事なできごとのひとつに、チャールズ・E・ジルバーマンの著書「教室の危機」との出あいがある。これはすばらしい本だから、まだお読みでなかったら読まれるとよい。

おそらく教育界でも最も意義ある書物の一冊ということになるのではないかと思う。これはすでにベストセラーになっているが、子供をもつひとはもちろん、子供に関心をもっておられる方はジルバーマンの著書をぜひ読んでおくべきだ。どなたにも役立つはずである。

この本は、偉大な社会学者であり心理学者であるチャールズ・E・ジルバーマンが、カーネギー財団から3年間の奨学資金を受け、その主旨にもとづいて教育の現状を調査した結果、書いたものである、

氏は結論として、アメリカの教育がすべてのひとを対象としていることを思えば、こと読み書き、算数を教えることなどに関するかぎりは、かなりうまくこなしていると述べておられる。私たちは読み書きを教えることにかけてはなかなかいい腕をもっているようだ。

しかし、人間であるためにはどうしたらいいのかということを教えるのは、ひどく不得手なのである。このことは、ちょっとまわりを見まわしてみればすぐにわかる。私たちは明らかに、力の入れどころを間違えている。

— posted by Self at 06:47 pm  

いま欠けているのは感動する心だ

バックミンスター・フラー氏(1895年~1983年のアメリカの技師、建築家)が、生前、キャンパスを訪ねられたときのことである。この魅力的なご老人は小さなマイクひとつを手にしただけで、ノートも、黒板も、オーディオもビデオもなにも使わずに、3~4千人の聴衆に向かって3時間と15分のあいだ、休みなく語りつづけられた。フラー氏は希望と未来について素晴らしい事をたくさんおっしやったが、つぎのような言葉で話をしめくくられた。
「私は未来に対して大きな希望をもっています。そして私は、その希望をつぎの3つに賭けています。それは、真実と若さと愛にです」
氏は小さなマイクをしまうと、ステージを降りていかれた。真実、若さ、愛・・・この3つは、私たちの明日への希望にもなるのではないだろうか。一般の人びとも、このごろようやく愛というものに目を向けはじめたようだ。以前ほど恥かしがらずに・・・。「私たちは原点に戻らなくてはいけないのかもしれない」とみんなが言いはじめている。ジルバーマンもこう書いている。
「いま欠けているのは感動する心だ。学校は楽しみもふれあいもない場所になりはて、子供たちを窒息させ、創造性をつみとり、楽しみをぶちこわしている」
学校はこの世の中でどこよりも楽しい場所であるはずだ。なぜなら、学ぶことは大変楽しいことであり、ファンタスティックな気分がし、あなたはなにかを学ぶたびにどこか新しく変わっていくからです。学ぶということは、あなたもそれに合わせてすべてを調整しなおさずにはいられなくなり、その結果、新しく生まれ変わり、自分で学びとったものにとりまかれることなのである。では、ここでちょっと、「愛あるひととはこういうひとだ」と信じていることについて次回紹介してみたいと思う。

— posted by Self at 12:22 am  

自ら学ぶ者こそが学ぶ

南カリフォルニアに来て1年目は、クラスをひとつだけ開講したのだが、そこで私はハッとするような体験をした。誰しもこんな経験をおもちかと思うI話しているうちに、聞いていてくれる人たちの鼓動が伝わってくるのを感じたのだった。あなたも、「人前で話をする」というだけでなく「聴衆に向かって語りかけて」いけば、あなたと聴衆とのあいだになにかが通いあうのがわかると思う。

大勢が集まって人の話を聞くのではなく、小さなグループになって一緒に腰を降ろし、心ゆくまで話しあうことができれば、そのほうがずっとすばらしい。しかし、それはそれとして、確かにどんな会場にも語りかけに応じてくれる顔もあれば生き生きと反応を示してくれる人もいる。

聞き手と話し手のあいだには通いあうものがある。話していて、支持してくれる人が欲しいときはそういう人たちに視線を向ける。するとその人たちはにっこり笑って、「そのとおりですよ、あなたはいいことをいっていますよ」と答えてくれる。こうして、私は大変力づけられるのである。

実は、私がはじめて開いたクラスにそういう人が一人いたのである。とても綺麗なお嬢さんだった。いつも彼女はうしろから6番目くらいのところに座って、うなずきながら話を聞いてくれた。私がなにかいうと、彼女が「ええ、そうですわね」といってくれるのが聞こえるような気がしたものだ。そして彼女はノートをとる。すると私はこんなことを考える。

「ああ、いま私は彼女と本当に心を通わせあっている・・・私と彼女との間には、とても素晴らしい、いいことが起こっている。彼女はいま学んでいるのだ・・・」

ところが、ある日彼女はぷっつりとこなくなってしまった。一体なにがあったのか想像もつかないままに、私は待ちつづけた。しかし彼女はとうとう姿をみせなかった。思いあまって私は女子学生部長に尋ねてみた。すると、こんな答えが返ってきた。

「ご存じなかったのですか。あの学生は論文もずばぬけて優秀で、頭も非常によく、考えられないくらいの創造力の持ち主でした。それなのに・・・ハリセイド州立公園へ行って絶壁の近くに車をとめると、そこから下の岩場へと身投げしてしまったんです。私は、あれ以来ずっとひとりで考えつづけています。学校で学生たちにいろいろなことを教えこんでいますけれど、私たちは、彼らが知識を詰めこむ機械なんかではなくて、人間なんだということを忘れているのではないでしょうか」

これと同じようなことをカール・ロジャーズ氏も最近、「好機を逸する」と題してつぎのように語っておられる。人が人にものを教えたなんてことを私が信じないのは、君も知ってのとおりだ。私は、教えることの効力には疑問をもっている。私にわかっているのは、学ぶ意志をもった者は学ぶ、ということだけだ。教師たらんとする人間も、所詮は助っ人にすぎず、ものを相手の目の前に置き、それがどんなに素晴らしいかを語り、食べろと勧めるだけのことだ。

私たちにできるのはそこまでで、だれに対しても、どんなものであっても、無理に食べさせるなどということはできはしない。どんな先生にしろ、誰かに何かを教えたなどということはなく、人はみな、自分で学ぶのである。「教育者」という意味の英語はラテン語からきており、「導く」とか「案内する」とかいう意味である。つまり教えるということは、まずその人自身が夢中になってその人自身がよく理解し、それを他の人たちに示して「ほら、これはとてもおいしいわよ。こっちへ来て、私と一緒に食べませんか」ということなのである。

「メイム」にこんな一行もあったではないか。「人生とは宴会です。とてつもなく不味い料理は、人を餓死させてしまう」そういうわけで、いまの教育はこれでいいのだろうかと私は疑いはじめたのだった。しかし、これも最近は以前ほど難しいことではなくなってきている。というのは、ジルバーマン氏のような方たちが、同じような意見を出されるようになったからである。どうやら私の言う事もそれほど奇妙だとは思われなくなってきているらしい。

— posted by Self at 11:27 pm